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92歳の理容師 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 品川区に越してきて約40年。

 引っ越してきて悩むのが床屋さん。

 とりあえずアパートから一番近い床屋に行ってみたのですが、どうもしっくりいきません。技術とかではなく、やはり床屋の雰囲気や理容師との相性だと思います。

 そこで、次に近い床屋に行きました。

 座席が3つあり、奥さんと旦那さん2人でやっている床屋さんでした。

 奥さんも感じが良く、旦那さんはいかにも江戸っ子と言う感じで気風が良い人です。

 自分より年上で、色々な経験をされていて話も面白く、威勢が良いのですが話もしっかり聞いてくれて優しい人です。

 そこに行くと心が落ち着き、気が付くと40年間経っていたということです。

 40年と言うと、自分の人生の殆どと言っても良い年月ですので、苦しいこと、楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと、絶望的だった時もありましたし、良い時もあります。

 色々な状況の中で色々な感情を抱えて、その床屋さんに行き、そこで気持ちを切り替えられたり、ヒントをもらったりして頭の内も外もリフレッシュして出てきます。

 腕も良く、以前このブログでも取り上げました。「その時だけではなく髪が伸びてからわかる腕の良さ」という記事です。



 その旦那さんが、先日お亡くなりになりました。

 年齢を聞いてビックリの92歳。

 昨年末に刈ってもらったのですが、まさか90歳を超えているとは思いませんでした。

 彼のことを考えると、凄い人生、凄い人、素晴らしい人・・・。

 多くの人の人生を支え導きました。

 その人たちが彼からもらった御恩を糧に、彼からもらった意思を永遠にこれからも生きていくのです。

 凄い職業!

 私も彼のように多くの人の笑顔をつくっていきたいです。


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考査?試験?検査? [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 「来週の数学の時間にテストをするぞ」

 テストの目的は何でしょうか?

ア.テストで自分の力を発揮するために練習。
イ.本番のテストの得点を予想して志望校を選択する材料。
ウ.テスト結果が合格のための努力目標。
エ.学習をさせることでの学力増強。

 どれも正解ですね。

 予め出題されるところ(出題範囲)を提示する場合は、勉強をさせて学力をつけたいという思惑があります。

 従って、学校の定期テストは生徒に勉強をさせるとことが前提です。

 だから、部活動も1週間前から原則無くなります。

 模擬テストは出題範囲が提示されている場合もありますが、範囲が抽象的だったり範囲が広かったりするため、勉強をしようが無いということがあります。

 しかし、模擬テストの目的は学力を知ること、志望校判定をすることが目的であるため勉強をしないで受検をしても問題は有りません。

 もし、勉強をするならば1つの単元に絞って学習することをお勧めします。そこが出題されたらできるようにすることは、学力向上には役立つはずです。


 さて、模擬テスト、学力テスト、定期テストではない、授業中に行うテストですが、その多くのテストは学習をさせるためのテストが多いと思います。

 私が授業中に行うテストは、学力の定着を知るためのテストか勉強をさせるためのテストです。

 勉強をさせるためのテストは、出題するところをはっきり明確にします。


 テスト=試験を、検査とか考査と言う言い方をする場合があります。

 私の中にあるそれらの違いですが、検査とは現在持っている学力を調べるものであり、考査とは本来、提示されたものをそのまま表現できるかどうかを調べるもの、試験とはそのままの表現させるのではなく、理解しているかどうかを調べるものです。

 身長や体重を調べることを、身体考査とか身体試験とは言いません。その人が持っている体格(素質)を調べる為、身体検査なのです。

 検査は何も対策を立てることはできません。もし、良い結果を出したければ基礎基本を固めることと、それを基に長い間思考力を養うことが必要ではないでしょうか。

 考査は努力で高得点を取ることが出来ます。ただし、短期記憶ではすぐに忘れてしまい、そのテストだけの結果にしか反映されません。長期記憶にするためには、暗記とは言え、「なぜ」と「どうして」と考えることです。

 試験は知識だけではなく、思考力、応用力を試されます。丸暗記をしている人、意味も解らずやり方の順序や公式を暗記して解こうとしている人、問題の理解をせず、途中の過程を軽視して答えを出そうとする人は試験での結果を出すことはできません。


 最近、学校の定期テストを定期考査と言う学校が増えていますが、定期考査となると丸暗記したかどうかを調べることになってしまいます。

 丸暗記をして覚えているかどうかのテストではありませんので、定期試験と表記が正しいかと思います。

 もちろん大切なのは、名前より中身なのですから考査でも試験でもかまいません。

 中身としてでず、定期テストの勉強が暗記する勉強になってしまったら、その子は将来、命令されたことやマニュアルの目的や理由を考えない人間になってしまうのではないかと不安になります。

 人に言われたままそれに従い生きていく、そして生きていくことに困った時に、「言われた通りに生きていたのに」と思うのであれば悲しいです。

 自分で自分の未来を切り拓くことが出来る人間になって欲しいと願います。



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順調な時こそ、その理由を考えよう! [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 人はうまくいっていない時は、色々と考え悩みますが、うまくいっている時には、その理由を考えなくなるものです。

 しかし、それが解らないと大きな落とし穴が待っていることが有ります。

 教育の世界でも「ゆとり教育」は失敗と言わざるを得ません。

 学校週5日制を成立させるためには、どうしても教育内容の削減が必要でした。

 日本が成長してきた理由である高い学力を維持してきたのは、難しい教科書と多くの授業によるものでした。

 ところが、学習指導要領を改訂し、学習内容を減らし難易度も下げてしまいました。

 円周率を「3.14」ではなく、「3」でやっていた時代が有ったのが今となっては不思議なくらいです。


 私立中高もそうです。今まで色々な学校を見てきましたが、どうして順調に生徒を集めているのかを解っていないで改革をして失敗する学校もあります。

 会社組織についても同様のことが言えると思います。

 調子の良い時は、自分自身を客観的に見られないものです。調子が良いため、何でもうまくいくと勘違いしてしまっては躓くことにもなります。

 もちろん、地雷を踏まずに先に進めることもありますから、必ず伸びがともるとは限りませんが、止まる前に伸びている理由を知ることが必要です。

 折角うまくいっているのにそれが続かないのは、「うまくいっているから少しくらいは良いだろう」と今までうまくやってきたやり方を変えてしまうことにあります。気が抜けるとか油断と言えるかもしれません。


 受験でも合格後に、緊張感を継続して、次の学校生活が充実できるように準備をしていきたいものです。とは言え、一生懸命頑張ってきた人が、受験が終わった後も同様の生活を続けられるかと言うと、それは難しいですよね。

 しかし、合格はあくまでも夢の実現のための通過点であることは間違いありません。少し休んだとしても、次の目標に向けて一歩前に!



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物事は始まる前に結果が出ている [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 イベントが成功したかどうかの判断はどこでするのでしょうか。

 「先日行われたこのイベントには3万人の人が集まり・・・」

 判断基準の1つは集客です。

 参加者の満足度、出演者の満足度、運営スタッフの満足度も当然、その判断基準となりますが、まずは開催前のチケットの売れ方、予約状況が重要です。

 2021年11月3日に行われた、大井町から教育を考える会の「私立中高合同相談会」は新型コロナウイルス感染防止重視して、参加者の密を防ぐため、初めて予約制にしました。

 その結果、予約は全て埋まり当日は適度な賑わいの中、相談会を行うことが出来ました。

 終了後に改善するべきところはいくつもあり、来年度以降につなげていきたいと思っておりますが、参加者が集まったことで、もう既にそのイベントは成功なのです。


 前回のブログで書いたテストについても同様です。

 「来週の数学の時間にテストをするぞ」

 授業中に行うテストの中で、出題範囲を明確にして行うものについては、その目的が学力をつけることにあります。

 塾生が勉強をしてくることにより、学力アップを目指すものです。

 つまり、勉強をしてくることが重要であり、その結果は重要ではないのです。

 と言うことは、「テストをするぞ」と言っておきながら、当日「中止する」としても、子供達が勉強をしてきたのならば、目的達成です。

 テストを行う前に、テストをしなくても目標達成なのです。


 入学試験にいてはどうでしょうか。

 入試は志望校に入るために合格点を取ること、つまり合格が目的ですから、いくら頑張ったとして実際には結結果が問題となります。


 しかし、入試の目的が合格することではなく、人が成長するための一つの通過点と考えるとどうでしょう。

 つまり、小中高生が大人になって行く過程としての受験勉強であり受験と言う経験。合格することは人として成長するための目標であり、合格は未来のその子の夢を叶えるための手段の一つであると考えると・・・。

 合否という結果ではなく、日区画を目指して取り組んだ過程が重要であり、受験をする前に結果が出ているということになります。


 10年20年…50年60年と言う長い目で見た時に、受験の結果より過程が人生を大きく左右する気がしてなりません。

 そもそも、受験は必ず合格となるわけではありません。

 だから頑張ることが出るのも確かです。

 不合格となっても人生が終わるわけではありません。

 大切なのは、遠い先の夢を持ち結果如何に関わらず、受験後に夢の実現に向けて、一歩踏み出せるかどうかです。


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コロナと家族と受験生 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 「母が陽性になりました」

 3/21の都立高校入試直前に受験生が濃厚接触者。

 おそらく、こんなことが沢山起きていると推測できます。

 家族の誰かが陽性となれば、必然的に家族は全員が濃厚接触者となります。

 受験生本人の不安な気持ちは計り知れません。

 陽性となった家族に症状が出ていれば容態が心配であり、自分が感染したら3/21の入試は受けられない。

 発症していないとしても、家族が感染したこと、自分が濃厚接触者となったこと、その上で入試を受けることになる動揺や不安は少なからずともあると思います。

 今まで、一生懸命に頑張ってきた受験生ならなおさらです。


 その受験生の気持ちを察し、辛い気持ちになっているのは感染した家族だと思います。

 特に親が感染した場合は、悪くないのに、罪は無いのに、仕方がないのに・・・自分自身を責めてしまうかもしれません。

 そんな親のことを考えると、すごく苦しくなります。

 さらに、受験生の気持ちも考えると、いたたまれなくなります。

 もし、そのようなことが起きたなら、私に何ができるのだろうかと思います。


 とにかく、寄り添う。話を聞いてあげる。

 3/9に「特例による検査」ができることで、安心してもらうようには努めるが、2/21同様の試験になるのか分からず、どちらにしても不安は残るだろう。

 不安を軽減し、気持ちも切らさず3/9の試験を受けられるようにできる限りの事をするしかないと思う。


受験生のお母さんお父さん(ご家族)で陽性になった方へ
全く責任は有りません。
あなたの子供はそんなに弱くありません。まずは自分の健康を第一に考えてください。それが今できる子供への一番の配慮です。陰性になること元気でいることが、我が子を一番元気づけることであることは間違いありません。そして、我が子を信じてあげてください。

お母さんお父さん(ご家族)が陽性となってしまった受験生へ
陽性となった、お母さんお父さん(ご家族)は凄く責任を感じていると思います。でも、一生懸命に生活をして、気を付けて生活をしていてのことですから、責任は有りませんよね。辛い気持ちを和らげることが出来るのは、気持ちを強く持って今やるべきこと、勉強と自分自身の体調管理をすることです。そして試験でベストを尽くして欲しいです。「私は今の自分にできることを精一杯やった」それが今できることです。


 現実を受け入れ最善を尽くす。

 未だ、受験は終わっていません。

 未来は自分の気持ちで変えることが出来るはずです。

 受験生がベストを尽くすことで、親の罪悪感を消すことが出来ます。

 そうなれば、結果はともあれ、最高の結末が訪れると思います。


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明けましておめでとうございます [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

すばらしい一年になりますよう心からお祈り申し上げます
本年もどうぞよろしくお願いいたします
令和4年元旦

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感謝 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 令和3年は私にとってどんな年だったかと考えると・・・

 まず、東京オリンピックが開催されたことが思い浮かびます。

 スポーツ好きの私はずっと前から楽しみにしていましたものでした。私は絶対に観戦したいと思い応募した結果、見事にチケットをゲット。

 しかし、新型コロナウィルス感染拡大のため無観客。父母にも見せたいと思っていたのにがっかりです。

 しかも、海外での開催ならば時差の関係でテレビ観戦が可能だったりするのですが、東京開催なのでテレビ観戦も仕事の時間と被ってしまい思うように見られませんでした。

 本当にオリンピックは地元で行われたのかどうかピンときません。


 そして、一番の出来事は、いぶき学院の新教室移転です。

 今年の1月から移転先を探し始めて決まったのが7月。そこから、夏期講習を挟んで9月に引っ越し、10月に完全移転となりました。

 今はだいぶ落ち着きましたが、引っ越し前後はバタバタしておりました。

 いつも、そんな時に“人って本当に有難い”と思うのです。

 今回の移転に当たり沢山の人に助けてもらいました。感謝するしかありません。

 塾生たちに保護者様も急な移転にも関わらず、ご理解いただき有難かったです。

 このブログを読んでいただいている皆様にも感謝申し上げます。すごく励みになりました。

 令和4年は、この感謝の気持ちを忘れずに、皆さんに恩返ししたいと思います。

 皆様ありがとうございました。


令和3年12月31日




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一生懸命 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 先日、MLB大谷翔平選手の番組を見ました。

 そこで、大谷選手は小学生のころから次のことを考えていたことを知りました。

 一生懸命声を出す。
 一生懸命走る。
 一生懸命キャッチボールをする。

 ここには、勝とか負けるとか、0点に抑えるとかホームランを打つとかは有りません。

 どうやったら良い結果を出せるのかということを重視していたわけではないのです。

 ノートに書かれている文も「今日は大きな声を出せていたのが良かった」とか「一生懸命に走っていなかった」と書かれていて、結果ではなく一生懸命にやれたかどうかにフォーカスしていました。

 そして、一生懸命にキャッチボールをする。

 つまり、基礎基本をどれだけ一生懸命に、手を抜かずにやっていたかが分かります。

 それが、今の大谷選手の原点だったことに驚き、感動を覚えました。


 これらは全ての事に通じると思います。

 誰でもできることを一生懸命にやること、基礎基本を大切にしてそのレベルを上げること、結果を求めず結果で物事を判断しないこと。

 大人が、結果を気にして子供に対してうるさく言っていると、子供は小さくまとまってしまいます。

 勉強で伸び悩んでいる子供たちが沢山います。

 その子供たちを見ていると、結果(正解や得点)を気にする子が多くいます。

 目標点を決めてそれに向けて頑張ることは良いのですが、一生懸命にやること、つまり結果ではなく過程が大切であることを忘れてはいけません。

 良い結果が出る人の多くは、今持っている自分の力を信じて出し切ることが出来る人です。

 結果は自ずとついてくるはずです。

 結果を出そうとする人は、丁寧さを欠いたり、充分理解していないまま答えを出したりするため結果が伴いません。

 答えを急く人は、「たぶん」とか「きっと」とかで答えを出して解答欄を埋めてしまうかもしれません。

 根拠や理由が無く、答えを出すのです。

 “答えをだそうとするな!”ということです。

 答えを出そうとすると、本当に大切なものが見えなくなるのは、勉強だけではありませんよね。

 問題を見極めることができれば、答えは簡単にでてくるものです。


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私の東京オリンピック感動シーン [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 東京オリンピックが決まってから、スポーツ好きの私は、その時をずっと楽しみに待っていました。

 1つの試合、1つの競技も楽しみに見ていますが、オリンピックのように毎日複数の競技が行われることは他にはありません。この期間中は私にとって天国のような時なのです。

 勿論チケットの予約も周到に準備を始めたのですが、問題は夏期講習と被ることです。

 オリンピックが向こうから東京にやってくるこの絶好の機会を逃すと、オリンピックを生で見るためには海外に行かなければならないと思うと必死でした。

 講習と被らない日時の競技を選び応募しました結果、何と4競技に当選!

 しかし、無情にも無観客となり、生でオリンピックを見ることが出来なくなりました。

 競技も見ていませんし、選手も関係者も一切見ることが出来ず、本当に東京でオリンピックが開催されたという実感も湧いてきません。近所でオリンピック競技が行われていたはずなのに・・・。

 学習塾の仕事は5時間ずれていると言われることがあります。9時~17時の勤務ではなく、14時~22時勤務と言うことです。

 ですから、海外でのオリンピックは時差の関係で真夜中に競技が行われることも多く、LIVEでテレビ観戦できる学習塾の仕事は、私にとって好都合であり、「学習塾っていいなぁ」と思う時でもありました。

 ところが、東京オリンピックは真夜中に決勝は行われず、常にデイリーハイライトが流れている状況でした。

 もう既に終了している競技を、「まだ終わっていない」と言い行かせて、ビデオやNHKプラスで見る努力もしました。

 しかし、情報は聞こえてきてしまうもので結果を知ってしまうことも少なくありません。

 ビデオを撮っても時間通りに始まらず、試合の半分以上が撮れていなかったり、NHKではメダル獲得時に上部に「○○金メダル獲得」と速報が出てしまい結果を知ってしまったりして、結果を楽しみに見ることが出来なくなります。

 ということで、オリンピックを「お家でテレビ観戦」は殆どできませんでした。

 講習で疲れている中で日々の唯一の楽しみであるオリンピックは、ご近所開催でチケットも当選したのにも関わらず見ることが出来ず、時差が無いためテレビでLIVEで見ることすらできませんでした。

 あんなに楽しみにしていた東京オリンピックは何だったのだろうと思い泣けてきます。


 ところが、帰宅してテレビをつけたら、たまたま野球の決勝をIVEでやっていた日がありました。

 途中経過も何も解りませんでしたが、日本が2-0で勝って9回表、栗林投手がマウンドに立っていたのです。

 そして、最後の打者を打ち取り優勝の瞬間を見ることが出来ました。

 「やっぱり生が一番」と思い見ていると、本当の感動の場面はその後にありました。

 試合が終了し、観客がいないにも関わらず、日本の選手が一列に整列してスタンドに一礼、さらに振り返って雨の下のベンチに向かって一礼。するとアメリカのソーシア監督が、選手たちにベンチから出てくるように促し、自ら稲葉監督と握手しました。

 すると日米の選手が次々と握手を交わし、互いにリスペクトする場面です。

 試合経過も何も解らなかったのですが、日本の選手の礼と選手同士の握手の光景、思いっきり泣きました。

 やっぱりスポーツは最高ですね。



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シクラメン [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 新型コロナウイルスの感染が続く中ですが、今年もシクラメンがきれいな季節となりました。

 シクラメンを初めて見た時「不思議な花だなぁ」と思いました。花びらがひっくり返っていて、沢山の葉の下から小さなつぼみが沢山出てきている。

 冬の植物と言うとポインセチアも不思議ですね。赤い色をしているのは葉というのが斬新です。ただ残念なことにシクラメンもポインセチアも育て方がよくわからず、毎年からしていました。

 ところが今、いぶき学院の入り口のところにあるシクラメンは、5年以上経っていますが今年も花をつけてくれそうです。

 では、どうして毎年花をつけてくれているのかと言うと、何もしていないからだと思います。咲き終えて花も葉も無くなり、隅っこにそのまま置いていたら葉が出てこの時期花が咲くようになりました。

 こちらが良かれと思って世話をすることは、シクラメンにとって良くなかったということです。何か子育てに共通するところがあるような気がします。

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熱き運動会 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 10月と言えば運動会。小学生の時、足が遅く徒競走ではほとんど6年間ビリ。徒競走が嫌でたまりませんでした。中学校では徒競走ではなく障害物競争や中距離走となり、足が遅くても結果が出るようになり運動会が楽しみになりました。

 運動会で忘れられないことがいくつかあります。

 小学校の運動会。徒競走は嫌でしたが母が弁当をもって見に来てくれることは嬉しく、運動会は楽しみな行事となっていました。少なくとも友達たちもそうだったと思います。

 雨が降ると中止になるので、天気予報が微妙な時はドキドキものでした。開催されるかどうかは、今ならホームページにアップするとかメールやLINEで通知となると思いますが、当時は開催の場合は朝6時に花火が打ち上げられることになっていました。

 ある年、花火が打ち上げられません。雨は確かに降っていましたが病んでいます。小学校に行くと理由が分かりました。校庭が水たまりとなっていてとても運動会をする状況ではないのです。

 すると、誰が言い出したかわかりませんが、全校児童約1000名がグランド整備を始めたのです。水をかきだし、ぬかるみに砂を敷き均す。あまりにも子供たちが一生懸命にやるので、学校側も一転して開催することを決めてくれました。

 高校の運動会と言うと棒倒しと騎馬戦。ほとんど喧嘩です。体当たりや飛び蹴りは当たり前、顔を踏みつけ人の上に登って棒を倒す。高校2年生の時の棒倒し、確か負傷者が救急車で運ばれたこともありました。でも運動会は中止とならず継続されたような・・・。

 とにかく運動会は熱い戦いドラマがあって想い出に残っています。あっ忘れていました。大学の運動会でもっと大変なことがありました。私が無茶しすぎて救急搬送。一晩集中治療室に泊まりました。

 嫌なこと、苦しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、色々なことがあった運動会。今でも心に残る想い出はどれも大切な宝です。今年開催される学校があると聞きますが、来年は必ず全ての学校で開催となり、子供たちの大切な想い出となることを信じます。今年はコロナ禍だからできることを工夫して行い、良き想い出にしたいものです。


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高校卒業生の会 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 14日の日曜日、高校を卒業し新たな道に進む元塾生たちが集まった。

 この春、都立高校を卒業した女の子2人がその報告に来てくれた時に、みんなで集まろうということになったのだ。LINEと郵便で連絡が取れるメンバーに通知し、当日11名がやってきた。

 いぶき学院では高校受験終了後、3月に合格パーティを開催する。3月でグループ指導が終了し、高校1年生からは個別指導での学習となる。ほとんどの塾生は一旦休塾となるが、そのまま高校でも継続する者、高校の途中から再開する者も少なくない。この学年は高校生時にいぶきで学習した者は比較的多い。

 1人ひとり高校での生活とこれからのことを話し、お寿司やピザを食べ、ジュースを飲み語らい、中学生時代の写真を見て、ゲームをし、記念撮影。約3時間あっという間だった。大阪のK大学に進学したAさんからの差し入れがあったり、札幌のH大学に進学したU君がテレビ電話で参加したりして場が盛り上がった。

 出席者の約半数が高校時代にいぶき学院に通っていた者であり、時々顔を出してくれた者もいたので、本当に3年ぶりと言う者は2人だけだった。そんなことも有り、私としては久しぶり感が薄く、何かいつも一緒にいたメンバーで、いつもいるのが当たり前のように思えたメンバーだった。

 ところが、彼らが帰った後、それは当たり前ではなく有難いことであるという思いが込み上げてきた。このメンバー、特に中学2年生の時は本当に大変で、本気に向き合い、本気で付き合ってきた。その結果、高校でも沢山の者が個別指導に通ってくれて、しかもあれから3年経ってから10人以上集まり、集まれなかった人たちからも沢山連絡があった。

 私は授業中に色々な事を話してきたので、こういう場ではあまり話をしないようにと思っているのだが、話をしろと言われる。ちょっとはカッコつけていい話をしようと思うのだが、どうもうまくいかない。後になって、あれは特別な時間と気がついた時に、何かできたのではないか、何かいい話ができたのではないか、話をもっと聞きたかったと悔むことになる。

 今ここで、来られなかったメンバーにも言いたい。特別な時間、特別なひと時、本当に一緒に過ごせて嬉しかった。本当にありがとう。

私は幸せであるとつくづく思う。


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新年 あけましておめでとうございます [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

2018年
新年 あけましておめでとうございます
皆さまにとって 本年が良い年になりますよう お祈り申し上げます

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日馬富士の引退に思う [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

日馬富士が引退。
大相撲ファンの1人として、賛否両論あると思いますが私の思いを述べさせていただきます。
事の真相が明らかになる前であり、鳥取県警の捜査、相撲協会危機管理委員会の調査結果も出ていない。番付編成会議が29日にあるとはいえ、日馬富士自らの決断に早すぎるという思いと、残念であるという思いと、釈然試しない思いが入り混じっている。
暴力は行けないことは間違いない。そして、横綱としての品格の問題も当然ある。しかし、日馬富士の引退、特にこのタイミングでの引退を喜ぶ人がどれだけいるだろうか。「仕方がない」、「当然だ」と言う声はあるだろうが。「やったー、嬉しい!」という人は果たして何人いるだろうか。被害者である貴ノ岩の気持ちを察すると複雑な思いであろう。来場所土俵に上がる時、どんな思いで上がるのだろうか。関係者の皆さんも辛いことではないだろうか。
日馬富士は先場所、1人横綱として大逆転優勝を成し遂げた。あの場所は次々と横綱が休場となり、日馬富士自身も万全でない中で休場ができない状況に追い込まれ、15日間相撲を取り続けた。本当に辛かっただろうと思う。
その日馬富士が今回の騒動で、まだ調査中でありながら引退に追い込まれたということは、よっぽどのことではないかと思う。
私は、日馬富士を擁護する気はないが、本来、相撲協会にしても横綱審議委員会にしても力士を守るべき組織ではないかと思う。団体のトップはそれを組織する人たちを守るのが役割の1つであり、処罰することが目的ではないと思う。真実を究明し今後同様のことが起きないようにすること、悪質であるならばそれなりの処罰をすることは当然のこととして、それが、真相も解明されない段階で日馬富士を守り切れなかったことは、誰にとっても良いこととは思えない。真相が明らかになった上での引退勧告となるならば仕方がないし、納得もできる。それは今後につながるからだ。
又、日馬富士の引退は、巡業中に起きたことであるので、巡業部長の責任は当然。相撲協会、横綱審議委員会の責任もある。そこを蔑ろにしたまま、日馬富士が引退となり、彼1人に責任を負わせてしまう結果になったとしたら、力士たちは安心して相撲を取ることができないのではないか。相撲協会は厳しいことを語り、脅し、罰を与えるための協会ではないはずだ。力士たちの良い理解者であり、守り育てるのが相撲協会ではないだろうかと思う。

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病から得たもの [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 9年ほど前、初めて入院した。それまでは体力には自信があり、取り柄が体しかないと思っていた自分が入院をした。1週間の入院であったが、退院をして1年ほどは普通に生活できなかった。

 その入院前の苦しさは半端なく、思い出したくもないことのひとつである。土日を挟んでいたので月曜日に病院に行こうと思い我慢をしていたのだが、日曜日の夜は痛みで一睡もできず、1秒をあんなに長く感じたことはなかった。朝病院が空くのを自宅のベッドで横になり持った。長い長い夜だった。病院の受付で倒れ即入院となった。

 その時と退院後の不自由だった経験は私にとって大きなものとなった。気圧の変化が及ぼす体調の変化も体験した。病というものの怖さと、病にかかっている人の辛さを多少なりともわかるようになったからだ。

 生ということへの意識も高くなった。時間を有限であり、無駄な時間を過ごさないように生きていこうと考えられるようにもなった。

 2度と経験したくない事ではあるが、あれがあったからこそ自分は変われたし、人の気持ちも少しわかるようになったかなと思う。

 以前もブログで書かせていただいたが、自分が経験したことについては、他人と共感できる。人の人生は喜びも楽しみもあるが、悲しみや苦しみもある。少しでも多くのひとの気持ちを分かってあげられるよう、思いやりと優しい気持ちが持てるように、人は頑張り、一生懸命生きるのではないか。

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自分を責めないで [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 気配りができて、よく気が付く子がいました。誰かが困っていると声を掛け、大変そうだと助けてあげようとする。誰かに助けてもらうと、「ありがとうございます。」とお礼を言う。そして、うまくいかないと「私の努力が足りなかったからです。」、「油断してしまった自分がいけないんです。」と自分を責める。その子は家族の事でも、その子の責任ではない事でも責任を感じて落ち込んでしまう。

 「あなたは、人の気持ちを察することができる。色々な事を全部自分で受け止めてしまったんじゃないか。」、「自分を責めてはいけない。一生懸命だったんだろう。頑張った子は自分を責める必要はないんだ。」、「自分を責めたら、頑張った自分に申し訳がないじゃないか。自分の事を褒めてあげよう。」と話したことがありました。


 似たようなお母さんもいます。我が子のために必死に行動し、助け、手伝い、段取りをして、うまくいかないと「私が悪いんです。」「私に原因があるんです。」、「こうなってしまったのは私のせいです。」

 自分を高めようと、自分を鼓舞しようと、そんなことを言う人もいますが、それは前向きにとらえているケースです。

 しかし、自分を責めて本当に行き詰ってしまうこと、自分を嫌いになってしまう事も有ります。自分を嫌いになると他人も嫌いになり、自分も他人も許すことができない人間になっていきます。


 “頑張った人は責められない”のです。「最善を尽くした結果」を責める権利は誰にもありません。それは自分自身にもです。少なくとも自分が認めてあげないと、頑張ったこと、一生懸命だったこと、良かれと思ってやったことは自分が一番わかっているはずです。自分を責めてはいけません。その理由は、“あなたは悪くない”からです。

 問題があるのは人ではなく“行動”であることを忘れてはいけません。“行動”に目を向ければ失敗を教訓として改善していけるはずです。

 自分を責めないで、目的を持ち、進む道を決め、前を向き、1歩ずつ前進ですね。

嘘は泥棒の始まり [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 「嘘つきは泥棒の始まり」と言いますが、平気で嘘をつける人は当然ながら良くないですね。嘘をつくことは相手を傷つけることにもなりますし、何より自分に対して申し訳が立ちません。

 生きていく上で嘘をつく人は、人から本当の感謝を受けることはありません。偽りの感謝しか受けることが出来ません。ですから、相手に嘘をついているのですが、自分も嘘をつかれていることになります。だから嘘つくことは誰のためにもならず、最悪の結果にもつながりますから、“絶対に無し”です。

 ただし、ここで言う嘘の意味は自分のために、私利私欲のためにつくものです。時と場合によって「嘘も方便」となることもあります。

 それでは、嘘をつかないためにはどうすればいいかというと、嘘をつく必要が無ければいいのです。嘘をつく必要が無い人は悪人でない人です。悪人でなければ嘘をつく必要はありません。

 私は悪人でない人は嘘をつく必要がないし、隠し事をする必要はないと思うのです。「あなたは悪人ではありません。だから嘘をつく必要はありません。」人間、正直に生きたいものです。

 でも注意したいことは、親や指導者の言葉です。子が善人で嘘をつきたくなくても、分かってもらえず人格を否定されるような時、親が褒めたりご褒美を与えるしつけをしている時、結果で全てを判断する方針であったりすると、どうしても嘘が必要になってしまう事があります。(※褒めることは良い事とは限りません!)

自分を変える [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

自分を変えるには

自分を変えるには“全否定”することです。“全否定”と言っても自分自身を否定することではありません。自分を受け入れない事でもありません。ネガティブな考えになる事でもありません。

むしろ、“全否定”というのは、自分自身を認めて、自分を受け入れ、ポジティブな発想をしていくことです。

長い時間勉強しても、たくさんの量を勉強しても、成績も上がらないし学力もつかないという人がいると思います。勉強だけではなく仕事でも、長い時間働いても、たくさんの仕事量をこなしても、うまくいかないのは同じです。どんなことでも同じことが言えます。


では、どうしたら変えることができるのでしょう。


たとえば、学校の成績を上げようと、学校の授業でやったところで、わからなかったところを家庭で学習する。ところが成績は伸びない。自分で解決できなくなり親が教え始めるが伸びない。そこで、やり方を変えようと学習塾に通い、自分ではどうしても解決できなかったところを、教えてもらうことにします。さて、それで成績は伸びるでしょうか?

私は伸びないと思います。ただし、勉強に関しては多くの要素が関わります。「わからない」の質と量と教科と単元と考え方、ノートの書き方、話の聞き方、そしていつからわからなくなったか等が1人ひとり異なるので、絶対とは言えませんが、伸びないと思います。


変えるためには、今までやってきたことを止めて、新しいことをやる事です。一見、親が教え始めたり、家庭教師を付けたり、学習塾に通わせたりすると、新しいことを始めたように見えますが、「わからなかったところをやる」ということには変わりがありません。伸びる可能性があるならば、自分より親、親より学習塾の先生の方が問題を解くことができるという理由だけです。でも、最初に20点ほど点数が上がってその後は平行線か下降線でしょう。なぜなら、学習法が変わっていないからです。

このケースでは、今までやってきた“うまくいかなかった方法”を強化しているだけです。だから変わることはありません。


他の例では、暗記型の学習法をしている人は明らかです。中1では暗記で十分点数が取れた。下手をすると試験前に少し覚えれば見た目は悪くない点数が取れた。ところが中2、そして中3となってくると、難しく勉強(暗記)しなければいけない量も増えてくる。でもやり方を変えないで、それを続ける。しかし暗記なので、全部暗記できなかったり、暗記なので忘れてしまったり、暗記なので実は同じ問題でも言い回しが少し違うだけで別の問題に見えてしまうことがあります。それらは“うまくいかなかった方法”、ここでは暗記を強化しているだけなのです。暗記型試験のセンター試験が廃止になり、新しい試験が導入されます。それは、暗記ではなく思考力を問われる試験なのです。このまま、暗記型の勉強で学校の試験、高校への進学と進級はごまかせても、大学受験はどうにもならないことが目に見えています。


先生の授業でも同じです。「生徒がうるさくて大変でした。」という話があります。その対処方法として先生に聞くと「大きな声で話してみました。」と言います。そしてそれを試した結果静かになりません。ではどうしますか?と尋ねると「もっと大きな声で話します。」と言い試します。勿論その結果は、初めよりむしろうるさくなったそうです。同様に生徒がうるさいことに対して「注意をする。」うまくいかないから「もっと注意をする。」・・・うまくいくわけがありません。“うまくいかなかった方法”を強化しているだけですから。


自分を変えるためには、後少し頑張ろうでは変えることはできません。今の自分を「100」とした時、いくつになれば変わったと言えるのでしょうか?「101」ですか、「110」てすか?頑張れば「120」位まで行けるかもしれません。しかし、「200」にしようとすると、頑張っても無理です。

なぜなら、「100」から「120」にする場合、「100」は同じであり「20」増やすことになり、今の自分を肯定した上に成り立っている数字ですが、「200」にしようとすると、半分はだけしか今の自分がないからです。今の自分を否定していかないと難しい数字になってきます。

本当に自分を変えるなら「100」を「10000」にすると考えると良いでしょう。つまり、100倍にするということです。そうすると、今の自分は100分の1しかありません。99が新しい自分です。それが“全否定”なのです。


自分を客観的に見て、大きな夢を描き、常に目的を持ち、今の自分を“全否定”して前に進むことで人は変わっていけるはずです。

言い訳は成長の敵 [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 以前、塾生でお父さんに「だって・・・」と言った瞬間にぶたれるという子がいました。みんなに「だって・・・バシッン」と言われていました。お父さんは言い訳を許さない方だったのです。言い訳をさせないためにぶっていたわけですが、ぶつこと以外に方法は無いのでしょうか。

 言い訳をする子に共通していることがあります。それは、親が子供を許さないと言う事です。「どうしてこんな事をしたの!」と言って叱るのですが、全然話を聞いてあげない。そして、口うるさく何度も注意して愚痴を言う。子供は何とか叱られないために、言い訳をするしかありません。

 ですから、言い訳をしない子に育てるためには、子供を許すことです。そのためにはまず、子供と子供の行動を分けて考えることです。子供への言葉がYOUメッセージとなり、子供自身を責めるようにならないことです。問題なのは子供ではなく子供の行動や言動なのです。

 もう一つは親自身が自分の事を許すことです。親が叱る原因として「私が納得できない」があります。親が自分自身と子供を重ねあわせて自分の事のように思ったり、自分の価値観を子供に押し付けてしまう事もあります。親子でも別の人間であるということを忘れてはいけません。

 だから、自分自身を許すのです。自分を許せなければ子供を許すことはできません。自分を許せれば子供を許し子供を理解しようとする。つまり話を聞いてあげることに繋がります。本当に子どもを信頼しているのなら「何やってんの!」ではなく「どうしたの?」になります。その時に聞くことは言い訳ではなく理由です。

 もし、言い訳になっていても、「そうなんだ」、「たいへんだったね」と聞いてあげるしかありません。言いたい事がある場合は、アイメッセージを使うことでコミュニケーションを取ることができます。

自分に合う学校はない!? [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

 以前こんなことを書いたことがある・・・
 「A高校に行きたいんだけれど、あの高校は挨拶ができていないと思った。だから悩んでいるんだ。」というB子さんに「だったら入ってからB子が、『挨拶をする学校』に変えればいいんだよ。」と話したら、B子さんはA高校を受験して“合格”。
そして、生徒会長になって『挨拶をする学校』にした。


 私の同級生が高校を転校して行った、剣道をやっていたM子は転校先の高校に剣道部が無かったので、高校2年生の時に自ら剣道部を設立。そして1年間で県で上位のレベルに引き上げた。ちなみに彼女は高卒後東京に出てきて大活躍をしている。

 自分が好きで入った学校でも何かがおかしい、何かが違う。そう、自分に完璧に合う学校は存在しないのだ。すごく気に入った学校でも、多少嫌なところは出てくる。それを、学校や先生のせいにしたり、「学校が合わない」、「第一志望でなかった」と言い訳をしても何もいいことはない。逃げずに前を向くしかないのだ。

 どんな学校に入っても楽しいことばかりあるわけではない。だから嫌なことを受け入れ我慢することも必要になる。さらに自分のために、学校のために、友達のために学校を変えることは有りだと思う。そして、それは可能な事である。そんなことができたなら、その学校があなたにとってベストの学校となる。

 「進学した学校があなたにとって一番いい学校である」ということを肝に銘じて欲しい。

 今の社会にしても、会社に生活の面倒を見てもらう時代ではない。会社の面倒を見る時代だ。「自分が変えていく!」という気概を持って生きていけば、どんな学校でも職場でもやりがいを持ってやっていけると思う。

 みんながそんな気持ちを持っていけば、世の中もより良く変えていけるのではないだろうか。
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