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宿題が終わらない [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

「自分の子供(小学生)に宿題が終わらないから学校へ行かない。」と言われたらどうしますか。

「学校へ行かない」は親にとって辛い言葉かもしれません。

宿題は何のためにやるのでしょうか。

それぞれお考えがあると思いますが、最近(?)、宿題をやってくれるサービスがあります。読書感想文や論文も書いてくれます。そこの企業に依頼して宿題をやってもらうことも一つの手かもしれません。

宿題をやる目的が学校で叱られないためとか、成績を下げられないため、合格するためであるならば、第三者にやってもらえば済むかもしれません。

しかし、その先を考えた時その子はどうなってしまうでしょうか。

時と場合によって宿題の目的は異なりますが、主に学力の定着や学力をつけるためと考えられます。そこを目的とすると、やってもらうという選択肢はありません。

教えてもらうは残りますが、これもやってもらうに近いかもしれません。と言うことは誰にもやってもらわず、教えてもらわず自分で考えてやるしかありません。間違っていても構いません。

宿題を出す側としては、頑張って考えて出した答えが違っているならば、そこを分析して指導できるので、むしろ間違ってくれた方が良い時があります。適当にやってこられるのが一番困ります。それが正解でも間違いでもです。

又、宿題の目的が頑張らせるためであることがあります。この場合、正解かどうかとか出来栄えはあまり重視されませんが、終わらなければ学校や塾で、それなりの結果が待ち受けていますので、それを自分の責任として受け入れることになり、それが次につながります。

いずれにしてもやってあげることは良い方向に結びつきません。


ちなみに、小学4年生に「大人になって、パパ、ママになって、自分の子供に宿題が終わらないから学校へ行かない。」と言われたらどうすると聞いてみると、返答は「無理やりにでも学校へ行かせる。」、「次から早く宿題をやるように言う。」でした。 


子供達は自分でやらなければいけないことを知っていて、「宿題が終わらないから学校へ行かない。」と、親を利用するのです。

「自分の宿題は自分でやりなさい。終わらなくても学校へ行って、先生に終わらなかったことを自分で言いなさい。」、「一生懸命にやる事が大切なんだよ。」、「1人でできると信じているよ。」と言い、終わった時は頑張った事や信じていたことを伝えてあげます。

終わらなくても一生懸命にやろうとしていたならば、それについて「よく頑張ったね。」と言えるはずです。そして、学校へ行って先生に自分で言った時「ちゃんと言えたね。」と言うことができます。

子供の頑張った事、逃げたり諦めたりせずにやり遂げようとした事、自分の責任を自分で取った事に焦点を当てて、親の気持ちを伝えましょう。

「自分でできると信じていた。私は嬉しい。」


子の成長を見ることは親にとって嬉しいものですよね。


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ありのままの自分をぶつける [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

この年になると体のあちらこちらがおかしくなるもので、病院と整体(マッサージ)が欠かせなくなっている。マッサージは誰がやっても同じと言うことは無い。

ただ「背中を押されているだけ」と感じることもあるし、「気持ち良かった」とか「楽になった」と感じることもあるが、施術後に明らかに体の調子が「良くなっている」ことがわかる時もある。

学習塾や学校の授業も授業後に明らかに学力がつき、それが実感できるものでありたいものだ。


今までも何度も書いてきたことだが「授業は難しい。まだまだ未熟だ。」と思う。

20代の時は3回に1回上手くいけば上出来と思っていた。上手くいくというのは塾生が「なるほど!」と解る授業のことだ。

しかし、今はそれを満足のいく授業とは思えない。今の私が満足のいく授業だと思えるのは年に数回あるかないかだ。

満足のいく授業とは塾生に変化が起こる授業だ。教科に関わらず学習内容を理解し身に付く過程において、人間的成長が見られた時にそれを満足のいく授業と言うことができる。

そのためには、塾生1人ひとりのその時の状態(理解力、理解度、精神状態、健康状態)をこちらがどれだけわかる事ができるかが重要だ。その状態によって、授業の組み立てや話す内容(例や問題)を変えていくからだ。

言葉や言い方、話の強弱やリズムも変える。発問のタイミングと内容、塾生の誰に聞くのか全員に手を上げさせるのか、考える時間と演習の時間と自分の話す時間も秒単位で調整していく。立ち位置や板書なども状況に応じて変えていく。

授業内の全てのことについて目的を持ってやっているかどうかが重要だ。

授業が終わった時、やり切った感があるのは良い時だ。心地よい疲れを感じる。


それでも、得点や成績等の結果が出なければ、ただの「自己満足」かもしれない。

私は塾生がいぶき学院に来てから帰るまで、将来幸せになって欲しいと考えて接している。それが私の目的で、それが志望校合格や成績アップ、学力向上につながり結果が出ると思う。

目の前の試験で得点を取る事を目的とすると、本当に大切なその後が疎かになる。塾生達が本当に大切なものを目指して今を精一杯頑張ることで、結果を出してもらいたい。

そのためには、ありのままの自分を塾生にぶつけていく。勉強についても、大切なそれ以外についても、今私のできる精一杯を出し切り真摯に向き合っていく。

それが人の一生を左右する仕事をする者の責任だと考える。


だから授業において私は、満足のいく授業を目指し頑張る。

もちろんその満足レベルを上げていくため、一生「授業は難しい。まだまだ未熟だ。」と思い続けることになる。おかげで私は一生成長できる。

今自分のできる最高の授業(受けて得する授業・受けないと損をする授業)を1回1回積み重ね、授業のレベルと自分の人間としてのレベルを上げていきたい。

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不思議への寄り道 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

志望校合格が目的であるならば、合格をするためにどうしたらいいかを考え、その最短距離を目指すことが合理的かもしれないが、私は不思議を大切にして少し寄り道をしたい。

合格の先にあること、人の成長と未来の幸せを考えるとこちらの方が合理的だと考えるからだ。


受験生の授業はどうも面白くない。

身の回りには不思議が一杯で「どうしただろう」、「なぜだろう」が沢山ある。

もちろん、学校の勉強の中にも不思議がいっぱいだ。

ところが受験を控え、塾生が不思議に思っていることでも、興味があることでも、『学校の試験に出る出ない、都立入試に出る出ない』を優先せざるを得ない。

「これは出るからね。」、「ここまでは必要ないから。」となってしまう。

それに対して中学受験をしない小学生は、受験や試験に邪魔されず、不思議一杯の世界を堪能できる。しかも教えない授業をしていると、教科書に書いていない考え方や発想が飛び出してくる。

説明をさせると、日本語の使い方がおかしかったり、説明が不十分だったりしても、何を言わんとしているかはわかるので、それを受け入れてあげると次から次へとそれらは出てくる。

こちらが教えてしまえば新しい発想は出てこない。

こちらがわかってあげなければ新しい発想を出そうとしない。

教えず、わかってあげさえすれば、子供の可能性は本当に無限大であると気づかされる。

出てきた発想をみんなで考え意見を出し合う。そして「なるほど」が生まれるのだ。


『試験』は時に、自分を奮い立たせてくれたり、自分の学力向上に役に立ったり、自己成長にもつながる。

しかし、自分の中にある不思議を無視して結果を追い求めることは、試験の結果しか得ることができないかもしれない。


先にある大きな夢を実現するために、我々は全ての事から学べる事を知り、物事の見方考え方を変えて新たな発見を積み重ねることで、未来を創造していきたいものだ。

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天の川を見たことが無い!? [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 中学3年生の理科の授業。

 「天の川を見たことがある人」と聞くと手がパラパラと上がる。

 実際に授業が終わり22時ごろ、いぶき学院外に出て空を見ても星は殆ど見えない。本当は夜空に無数の星が輝いているはずなのに、1つ、2つ、3つ・・・と見える星は数える程度だ。

 天の川を見たことがあるという塾生はもちろん東京で見たのではない。

 地球と宇宙の学習を進めていくとさらに驚くことがある。「北極星を見たことがない」程度なら良い方で。太陽が昇ったところ、つまり日の出を見たことが無いと言う子が大多数。

 太陽が昇ったり、沈んだりするところを見たことが無いと言うのだから、私もつい「太陽は見たことがあるよね。」と聞いてしまう。


 私が小学生の頃、太陽や月、そして星は日常だった。

 太陽の方角や影の長さで時間を知り、北極星で方角を確かめた。

 夕方遊んでいると、夕日の近くに金星が輝く。そんな光景を何百回も見てきた。教科書に書いてあることは、極当たり前の事であり教わらなくても身近な事として知っていた。


 ところが、ここは品川区。太陽は気がつくとビルの谷間から見え隠れして、いつの間にか消えてしまう。方角もはっきりわからないから、太陽が昇る方角を知らない子もいる。知っていても覚えているだけかもしれない。本当は年に365回繰り返されることであるので、知っているとか覚えているというレベルではないことのはずだ。


 中学校の理科は身近にある事象の勉強であり、社会に出た時のために困らないための最小限の知識であるはずだが、ここ(品川区)では身近ではない。

 動物も植物も岩石も・・・。そもそも土はどこにあるのだろうか。植木鉢やプランターにある程度。植物もそこに植えてあるものだし、虫もそこに飛んでくる小さなもの。

 ちいさな蚊が1匹教室に飛び込んでくると授業中断となるほどだ。

 ヒト以外の動物で受け入れられるのは、ペットとして飼われているイヌやネコぐらいなもの。

 今日も小さな蛾が1匹、通路の壁に止まっていたため女子が通る事が出来なかった。

 このままでは生物をヒトが見るのは、インターネット上や動物園や植物園でしかできなくなるのではないだろうか。

 間違いなく、自然を感じることが難しい現状がここにある。


 ヒトは自然の中で生きてきた。ヒトそのものが自然であり、自然に生かされているのもヒトである。子供たちが自然から離れてしまうと、そのこと自体を忘れ去ってしまうのではないかと不安になる。

 教科書がタブレットになって、たくさんの知識をそこから得ることができたとしても、本当の自然に勝るものは無い。

 本当の自然からは、知識ではないことを学ぶことができるからだ。

 我々は生かされていること、そして自然のありがたさを子供たちに知って欲しいと願い、授業に力が入る日々である。


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