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疎外感と一体感から考える不登校(2) [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 私は、心理やカウンセリングについて勉強していますが、不登校の専門家ではありません。ただ、何十人もの不登校の子に接してきた経験からお話をさせていただいています。

 「学習塾がなぜ不登校の子と向き合うのか」と聞かれることがあります。その理由は、我々の役割が、社会に貢献できる人間を育むことと考えているからです。将来、誰かの役に立てる人間になり、人に感謝し人に感謝される人間になって欲しいと思うからです。

 不登校になった子は社会貢献ができないわけではありません。むしろ、不登校の経験が強みとなり、社会貢献できるようになって欲しいのです。ですから、不登校は悪いことではないのです。

 不登校も一つの経験です。その経験を糧として本人に変化が起きていくことに期待します。

 その変化の中に不登校からの脱却があります。その変化は本人にとって大きな意味があると思うのです。ひとつの壁を自分の力で乗り越えたという自信を得ることになるからです。これから、社会に出ると色々な壁が立ちはだかり、行く手を遮ります。でも、どんなことでも乗り越えた経験を持つ人間は強いはずです。


 不登校になる要因は複雑かつ千差万別で、その要因によって対応は微妙に異なります。

 しかし、複雑かつ千差万別な要因であるが故、逆に単純であるとも言えます。

 最終的な目標は、《自分で前に出ることができる》だと、私は思います。そこにたどり着く道程は一人ひとり異なります。でも道順はあります。①自分で決める。②自分で実行する。③自分でその結果を受け止める。そして《自分で前に出ることができる》にたどり着くと考えています。

 今まで、そこにたどり着いた子達は不登校から脱却しています。しかし、そこまで達したところを見られなかった子もいます。それを見られなかった子達については、原因を究明できなかったケースがほとんどです。

 私はたかが学習塾の先生かもしれませんが、保護者様が自己開示をして、自分をさらけ出す姿を何度も見ました。親が子を思う姿に心打たれたことも少なくありません。

 本人と真剣に向き合うには、まず保護者様が自分としっかり向き合う事、客観視して自分を変える覚悟を持つことが大切であると思っています。


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基本で決まる何事も「学力をつける学習法」① [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 大学生時代、卓球をやっていた私は当時全日本選手権に出場した先輩の話が今でも忘れられません。「セットオールで最後の最後にどっちが勝つかという時に、何で決まると思う?」

 サービス力、3球目攻撃、レシーブのうまさ、守備力、攻撃力、コース、スピード、フットワーク・・・?何が勝負を決めるか分かりません。

 少なくともハイレベルでの戦いを想定すると、高い技術、必殺サービスや高度なレシーブ、高速スマッシュなど誰にもできない技が試合を決めるのかと考えていました。

 ところが

 「それは、基本で決まるんだよ。」

 どれだけ基本練習をしていたか、どれだけ基本ができているかが大切であるということです。

 今でも覚えているくらいですからインパクトがあった話でした。


 私は卓球を始めた高校の時、誰からも教わらず見よう見まねで始めたため、基本ができていません。時々先輩や同輩に指摘される程度で、指導を受けることよりも本を読んで学んだことの方が多かったのです。

 大学生の時は卓球の練習にかなりの時間費やしていましたが、どうしても思ったように上手くはなれません。時間もかけ一生懸命にやったことは間違いありませんが、どうしてももう一つ上のランクへは上がれませんでした。


 他にも似たようなことは沢山あります。スポーツ大好き人間だったため色々なスポーツをしましたが、どれも多少はできるようになり、ある程度できると思うのですが、一流どころか二流にもなれません。スケート、スキー、水泳、バスケ、なども少しは上手にできるとは思っていましたが、凄く上手いという領域には達しません。

 唯一、基礎から指導を受けたスポーツがありました。それはサッカーです。小学生の時Jリーグの前身のチームが小学生を集めて指導していたからです。

 ですからサッカーが一番伸びしろはあったかもしれませんが、中学時代は野球に没頭するようになっていました。ただし、野球も体が小さすぎ(中学入学時身長134㎝)で3年間続けるのが精一杯でした。


 私は、伸びるか伸びないかが“基本”で決まるのはスポーツだけではなく、全ての物事がそうであると考えています。


 もちろん、学力も基本で決まります。人間も基本で決まります。


 ここでは、学力のについて考えたいと思います。

 前述したように、私の大学時代は卓球漬けで、球を打てる時は打ち、打てない時はトレーニングをしている日々を過ごしていました。本当に一生懸命にやったと思っています。でも、伸びないんです。

 勉強も一生懸命にやっても伸びない子がいると思いますが、それと同じです。

 たくさん計算しても、たくさん漢字練習をしても、たくさん本を読んでも、たくさん問題を解いても、英会話にたくさん通っても、海外留学をしても、学習塾でたくさん授業を受けても、一生懸命仕事を覚えようと努力しても、伸びない人がいるのです。

 もし、伸びない原因が“基本”ができていないという事ならば、そこを変えることで伸びるようになるはずです。私は、頑張っても伸びない原因のほとんどは“基本”にあると思うのです。


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疎外感と一体感から考える不登校(1) [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 平成29年10月25日東京都から発表された中学生の不登校の割合は3.78%でした。中学生で100人あたり約4人と言うことですが、実際にはもっと多い気がしてなりません。塾生にクラスに不登校の子がいるかどうか聞くと「5人」と答える子もいるくらいです。

 要因として、「不安」、「家庭に係る状況」、「いじめを除く友人関係をめぐる問題」などがあげられています。ところで、「不安」とは何に対しての不安なのでしょうか?なぜ「不安」になってしまうのでしょうか?

 さらに、不登校の問題に対する、『これまでの取組』が述べられているのですが、不登校になりそうな児童、生徒の相談に対応しますとうことは有りますが、ほぼ全ての取組は不登校になった児童、生徒の支援となっています。

 不登校からの復帰率は約25%ですから、不登校になった子の75%は復帰できないということです。


 私は、復帰するための取組は大切だと思いますが、不登校にならない取組により力を入れるべきだと考えています。

 私は、今まで多くの不登校の子と向き合ってきました。そして、その子たちが学校へ復帰する姿、大学受験を目指す姿を見てきましたが、復帰するまでには多くの労力(人手)と時間がかかります。

 不登校になりそうな頃、早期に対応すると不登校にならずに済むことも有ります。

 したがって、早期発見、早期対応がまず大切で、一旦不登校になってしまったら、本人としっかりと向き合い長期戦を覚悟して対応していくしかありません。

 そして、復帰を目指すなら中学生は、定期試験、新学期、新年度、高校入学、大学進学がそれぞれチャンスとなります。ただ、チャンス多く訪れるのですが復帰には時間がかかると考えて下さい。

 確認しておきたいのですが、不登校になった子が悪いわけでは決してありません。同様に、ご家族、ご両親が悪いわけでもありません。不登校の要因として「家庭に係る状況」とありましたが、私がお会いしてきたご家族に悪い人は1人もおりませんでした。けっしてご家族、ご両親は自分自身を責める必要はありません。

 私は不登校が問題ではなく、問題は不登校になった原因だと考えています。

 そこを解消しないと、今後の社会生活に支障が出るかもしれないと思うからです。

 そのためには、原因の究明と、ご家族やご両親の変化が必要になると考えます。

 過去の自分は変えられませんが、未来の自分は変えることができるからです。


※この話はデリケートで、しかも個々の事情が異なるため、私の話が当てはまらないかもしれませんので、その場合はご勘弁ください。


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疎外感と一体感 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

9月から12月には、多くのイベントが開催され、大井町から教育を考える会の相談会もそのうちの1つです。いぶき学院のイベントもあり、休みがあまり取れないのが当たり前となっています。

心身ともに疲れはしますが、そこで多くの人と出会い多くの事を学ぶことで、新しい発想につながっていることは確かです。体を労わりつつ、引き続き色々な方のお話をおうかがいしていきたいと考えています。


ところが、イベントの中には「もう2度と参加したくない」と思うものもあります。もちろん「また必ず参加したい」と思うものもあります。

この違いはどこから来るのだろうと考えてみて、たどり着いた結論は、“疎外感”を感じるか、“一体感”を感じるかということです。

全てがオープンで出席者全員が参加者になるような会は“一体感”を感じることができます。


たとえば、会場(受付)に行くと、顔を見るなり元気良く「こんにちは」と挨拶され迎え入れられる。礼儀とけじめと感謝の気持ちが伝わってくるイベントです。

そのためには、運営サイドが統一された目的持っていること、責任の所在が明確で指示系統にぶれがないことが必要かなと思います。

大げさな話になってしまいましたが、友達と会って少人数で食事をする場合でも、自分の知らない人がいると、紹介してもらうか自己紹介し合うまで、私はなかなか打ち解けることができません。そこにいる人がどういう人なのか分かると気が楽になり、全員で盛り上がれるようになります。

また、良くやってしまうことですが、同郷の人だと分かると、その人と自分しか分からない話をしてしまいます。しかも、互いに知っている話は楽しく、しばらく2人だけの会話になってしまうのです。

そうすると、周りの人に“疎外感”が生まれてしまいます。“疎外感”が生まれないようにするには、周りの人に「実は彼は同郷で、しかも実家が近所なんです」と説明をします。そして、2人の会話に解説を入れつつ話を進め、時には「あなたの故郷ではどうですか」と振ってみると、みんなで盛り上がることができる話があるはずです。

でも、つい2人だけの会話になってしまうのです。


以前、御茶ノ水でラーメン屋さんに1人で入った時のことです。ドアを開け、空いている席が奥の方に有ったので入って行きカウンターに座ったのですが、「いらっしゃいませ」もなく、水が出てくるわけでもなく、注文を聞かれることもなく数分経過しました。凄く寂しい気持ちになり外に出たことがありました。そこで感じたのは“疎外感”でした。


自分を受け入れてくれない。解ってくれない。無視されている。存在自体に気がついてくれない。見向きもしてくれない。こんなに頑張っているのに・・・。

“疎外感”ほど辛いものは無いかもしれません。

誰でもこの世の中に必要な存在で、役割を持って生まれてきたのは間違いありません。ですから、疎外される理由は有りません。自信を持って生きていきたいです。

そのためには、今在る自分は多くの人に生かされているという現実を受け止め、自分に関わる人達に感謝の気持ちを持って人と接していくことだと考えます。

「ようこそ」、「こちらこそありがとう」
「これからもよろしく」、「こちらこそよろしく」


どんなに立派なイベントであったとしても、そこには人と人とのつながりがあるはずです。大切なのは、何をやるかではなく“一体感”ではないでしょうか。

イベントに行くか行かないかの判断は、『何をやるか』ではなく『誰がやるか』で判断している自分がいます。

少なくとも、私は常に感謝の気持ちをもって“一体感”を感じ、みんなと共に過ごしたいと思います。


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“結果”はついてくるもの、出すものではない [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

小学生は中高生と比較して答えが正解かどうかを気にする傾向が強いと感じます。

宿題を出すと、ノートが解答欄となっていて答えしか書いていないことがあります。「計算はどこにした。」と聞くと、「別の紙にやった。」と言う子もいます。

しかし、いぶき学院の小学生で算数の宿題を答えだけしか書かない子を現在は見かけません。入ったばかりの時は答えしか書いていなかったり、途中式を書いていなかったり、横に「=」を書いていく子もいますが、数か月でノートの書き方が変わってきます。

式を書き途中式も入れて答えを出すという流れは、どんな場合においても不変なものです。それを小学生の頃から身に付けて、長い年月積み重ねると大きな差が生まれるのです。

又、大切なことは“答えを出す”ことではなく、“答えを出すために頑張る”ことであるという意識にもつながります。


先生や親、家族が、“結果”しか見ないで、“頑張り”を見ていないと、子供は当然やる気を失います。

答えを出すことを第一と考えるので、式も途中式もありません。目的も理由も考えません。周りも先も見ません。目の前の“結果”を出して親に認められる(褒められる・叱られない)ことしか考えなくなるからです。

“頑張り”は、やがて“結果”を出します。もちろん“結果”が出なくても“頑張り”続けることで人は成長し、気にしていた“結果”はどこかに行ってしまい、そこには“頑張った”という何にも代えがたい“結果”が残ると私は思います。

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